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本を読んで、里親ならではの感想が生じたら書きとめるブログです。

『スピリットベアにふれた島』ベン・マイケルセン

 

怒りと暴力という課題を抱えて、物語は進んでいきます。

 

主人公が、凶暴なのにとても泣き虫だったり、自分のために用意されたものを壊滅状態にしたりするところに、ある意味とてもリアリティを感じました。

 

また、その主人公がある大怪我をして、人の手によって運ばれていく場面があります。そこには、運ぶために動かされることによって起こる痛みがあります。他者が助けようとしているまさにそのとき、助けられている本人が感じる痛み。ここでは身体的な怪我ですが、心が大怪我している状態であれば、一見、見た目にはわからないことがある。体の大怪我のように、本当は特殊なケアが必要な状態。そんなふうに考えると、その渦中にいる人に、さあ今からさっそく正しい生活習慣を身に付けていきましょうなんて、場合によっては無理があるのかもしれない…そんなことを改めて思いました。まず十分な手当てをしてから。そして、十分な休養。そこにあるかもしれない痛みから回復するために。

 

ある場面では、片方の空を見ると太陽があり、反対側の空を見ると嵐の兆しがある。そんな空の下、主人公に寄り添う人が、空は晴れているか、それとも嵐が来そうかと問答を始めます。その中で、じゃあ、のぼってくる太陽だけを見たら?とその人は問いかけます。終盤、主人公は、誰もが大きな輪(サークル)の一部なんだ、と語ります。どちらも、絶望したときに少しでも心からそんなふうに思えたら、ずいぶん慰められるだろうなと思える言葉です。

 

スピリットベアにふれた島 (鈴木出版の海外児童文学―この地球を生きる子どもたち)

スピリットベアにふれた島 (鈴木出版の海外児童文学―この地球を生きる子どもたち)

 

 

『新版 親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』山田太一

 

この新版は、1995年に刊行されたものに加筆し、2014年に刊行されたものです。著者が思う親子についてのさまざまなことが、自叙伝を交えながら記されています。

 

その中に、「いまは豊かになって来て、一見いい人が増えてきた。だから、他人の恐さ  人間というものが本当は物凄く恐ろしいものだということに、少し鈍感になってきている」というようなことが書かれているくだりがあります。

 

社会的養護に辿り着いた子どもの事情というのは、子どもによってさまざまだろうと思いますが、中には「人間というものが本当は物凄く恐ろしいものだ」ということを、身をもって経験してやって来る場合もあるかと思います。

 

その場合、追い詰められた時の人間の恐さというものを知らない人が多くなっているかもしれない社会あるいは家庭の中に、そういうことに敏感すぎるぐらい敏感になっているかもしれない子どもが入っていくことになります。場合によっては子ども自身も、追い詰められたような状態にあるかもしれません。そのギャップによる摩擦は、起きてもおかしくはないのだろうと思います。

 

家庭に子どもを迎え入れる場合、そういったことももしかしたらあるかもしれないなと思っておくことは、決して無駄にはならないと思います。摩擦がもし何も起きなければ、幸運だったと胸をなで下ろすだけでいいのですから。摩擦はあるものだと思って子どもを迎えれば、そうなった時の衝撃は緩和されるでしょう。迎える側がそういったギャップの存在を知っておくことで子ども自身の孤独感も緩和されるとしたら、言うことはありません。

 

全体としては、たまにクスッとしたりもしながら肩の力を抜いて、束の間、こうでなくてはいけないという荷物を降ろさせてくれるような本でした。

 

 

『雨、あめ』ピーター・スピアー

 

文字がなくて、絵だけの絵本です。

子どもの、ある雨の日の日常が、言葉はなくても饒舌に描かれています。

 

里親になって子どもが委託された頃、きちんとしなくては…というプレッシャーを知らず知らず感じていたように思います。

 

自分自身が子ども時代に特段きちんとした生活をしていたわけではないけれど、子どもが委託されると、生活サイクルや体内時計を乱さず正常にしておいてあげなくてはいけない…などと変に生真面目に思ってしまったりして。

 

でも結局のところ、そんな生真面目さにしがみつこうとしても、委託された子どもの情緒不安定な負のエネルギーに、力づくで引き剥がされてしまいました。

 

子どもの非常に混乱した状態に、私の柄に合わない生真面目な思惑がぶつかり、今思えば全く不必要だった、と言えるような摩擦を生んでいたようにも思います。そこまでして私はいったい、誰のために、何のために、子どもの生活サイクルを整えなくてはいけないというプレッシャーを背負っていたのでしょうか。疑問しか残りません。

 

この絵本には、私が抱え込んでいたような生真面目さはどこにもありません。家庭生活なのですから、それで良かったはずなのです。絵本に出てくる家族たちはみんな、のびのびと自然に暮らしていて、落ち着いていて楽しげで、満たされた顔をしています。

 

たとえどんなに良いものであったとしても、尋常ではなく大変な時の特効薬になり得るものはないかもしれませんが、誰のためだかわからないプレッシャーを勝手に背負いすぎないようバランスを取るのに、もしかしたらどこかへいくらかは引き戻してくれる絵本だったのかもしれないと思います。

 

今この絵本と出会って、子どもも私もとてもお気に入りの絵本になっています。

 

雨、あめ (児童図書館・絵本の部屋)

雨、あめ (児童図書館・絵本の部屋)

 

 

『愛するということ 新訳版』エーリッヒ・フロム

 

旧訳のほうは誤訳が多いとのことなので、読まれる時は、1991年に出版された新訳版のほうを読まれるとよいかと思います。

 

愛とは何か、ということについて様々な角度から光を当てながら、広く、真正面から、論じられている本だと感じました。その中でもここでは、母性的な愛と父性的な愛、というものに絞って感想を書いてみたいと思います。

 

人間は、人生の初めにはほとんど母性的な愛(生理的要求に配慮し応じる用意があり、生命と成長を積極的に気にかけている、無条件なもの)だけを必要とするけれど、やがて父性的な愛(子どもを教育し、世界へつながる道を教える、条件つきのもの)を必要とするようになる。さらに成熟するとその両方を統合し、自分自身の「愛する能力」によって母性的良心を築き、「理性と判断」によって父性的良心を築きあげる。そういったことが書かれていたと思います。

 

里親として途中から養育をしていると、父性的な要素が必要な状況に陥っているのに、子どもからは圧倒的に母性的な愛だけを求められてしまう、というような時があったように思います。年齢や要求の内容に比べて中身はまだとても未熟なままの部分があって、もっともっと幼い頃に享受しそびれてしまったのかもしれない無条件の愛を取り戻そうとしているかのようでした。そんな時、父性と母性のどちらに照準を合わせればいいのか、揺らいでしまうこともありました。

 

でも、この本によると、母性的な愛というのはまた、子どもの存在を無条件に肯定し保護することからさらに進んで、「生きていることは素晴らしい」「生まれてきて良かった」という、人生に対する愛を教えるものでもある、ということでした。

 

私は、母性と父性のはざまで、揺らぎをあまり解消できないまま流されてきてしまいましたが、せめて子どもがこの、「人生に対する愛」というものについては、心に抱いて生きていけるようにと思います。

 

愛するということ

愛するということ

 

  

『ジョディ、傷つけられた子 - 里親キャシー・グラスの手記』キャシー・グラス

 

イギリスでベストセラーになった、ノンフィクション。

ベテラン里親である著者が、育てるのが一番大変だったという子どもについての回想録。

 

この本には、凄惨な虐待についての描写が、臨場感をもって記されています。

心に傷を持っていらっしゃる方は、読まないでいただければと思います。

 

子どもにはもちろん、読ませられる内容ではありません。

また、まだ若い方にも、読んでほしくない、と個人的には思います。

心に傷があってもなくても。

この本の内容を背負いこんでしまう必要はない、と思うからです。

この本は、大人が読んで、自分なりに何かを学んだり、思考したりするための本だと思います。

  

この本を読む前に、結末等を知りたくない方は、以下の感想を読まないでいただければと思います。ネタバレを含んでいますので。 

  

ジョディ、傷つけられた子 - 里親キャシー・グラスの手記

ジョディ、傷つけられた子 - 里親キャシー・グラスの手記

 

 

 

 

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